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2008年12月26日 (金)

キャバ嬢になりたい!?

女には耳(フェレンギ人の性感帯)を触らせても、
ラチナムには触れさせるな。
金儲けの秘訣 ・第84条)



最近、若い女性、女子大生だか、女子高生だかの、
将来なりたい職業調査の上位に、
キャバクラ嬢が入った、というニュースを聞いた。
残念ながら、人生修行中のぼくは、それがどんな仕事で、
どういう組織なのか、よく知らないのであるけれど、
推察するに、酒類を供するのを主たる業務とし、またそれによって、
利益をあげる仕事であり、むかしでいうところの水商売
ではないか、と思っている。

それが正しいという前提で話を進めるのであるが、
ぼくが若いころ、水商売をしているひとで、
自ら欲してその仕事をしているひとは少なかったように思う。
なんらかの事情、思うに多くは金銭的な事情で、
仕方なしにその業務に従事しているひとが多く、決して、
若い女性が憧れる職業の上位にランクされることはなかった。
おそらく諸外国では、今も同様の国が多いだろう。

職業に貴賤はない、は理屈だし、立派な意見ではあるものの、
だからといって、キャバクラで働くことが人生の目的、
というのも、いかがなものか、と思うぼくは、
差別主義者、なんであろうか。

むかし、電話帳配布のアルバイトをしたことがある。
台車で、山のような電話帳を運んでいるさなか、
派手なおねーちゃん、から遠慮がちに話しかけられたことを
思い出した。

うちは、むこうまちのスナックなのだけれど、
近所ではすでにあったらしい、電話帳の配布が、
うちの店にはなかった。
水商売関係は電話帳はいただくことは無理
なんでしょうか、と。

ぼくの配達区域外のことなんで、
理由はわかりませんが、そんなことはないですよ。
よければ、何冊でも持っていってください、とぼくは答えた。
派手なねーちゃんと無料で会話できたのをうれしく思った
記憶がある。
台車もぢゃっかん軽くなるしさ。

もちろん、ここまで卑屈になる必要はもちろんないのだろうし、
今のひとにはこの感じはわからないだろうけれど、
ぼくは、若い婦女子がキャバ嬢に憧れる社会よりかは、
なんぼか、むかしの方が好きだな、と思ったりする。

そのうち、小学生が作文の時間に、
うちのお母さんは若いころ、デスコでぶいぶいいわしてた
そうです。
わたしも、将来そんな風になりたいと思います、
なんて書くようになるのかもしれない。
いや、もうすでになってるのかもな。
そんなのんは、ぼくはやっぱりやだな(^_^;)


▼バンコクの日本人御用達の飲み屋街、
タニヤのねーちゃん。

Photo

2008年12月21日 (日)

モーツァルトの交響曲

銃を突きつけるより耳を愛撫する方が、しばしば効果的だ。
金儲けの秘訣 ・第43条)




このあいだ、エコ関係の催しで、むかし懐かしのプロレスラー、
ブルーノ・サンマルチノが、ゲストに呼ばれた、
というのをどっかで聞いた。
なんで、エコとプロレスラーが関係あるのんだ、というと、
なんでも、かれのニックネームだった、人間発電所
というのがエコッぽい、というのがその理由だったらしい。

このなんとも珍妙な取り合わせは、
けっこうえーかげんな思いつきで、実現したようだ。
たぶん、人間発電所、というニックネームがつけられた、
本来的な意味合いは、
かれのパワフルさを表現したものなのだろうと思うけれど、
いまや人間発電所、のイメージは、エコなのである。

思えば、むかしのプロレスラーのニックネームは、
なかなかユニークなものが多かったように思う。
人間山脈、と呼ばれていたアンドレ・ザ・ジャイアントは、
飛び抜けた大男であったし、
スタン・ハンセンはたしか不沈艦で、
ハーリー・レイス美獣、    
インドの狂える虎、だの、テキサスの荒馬、だの、
超人、だの、鉄人、だの、というのもあったよな。
ブルーノ・サンマルチノのおかげで、少し物思いに
ふけったりしたのであった。

しかしながら、ぼくがもっとも敬愛するところのブルーノは、
サンマルチノでない。
ワルター、の方だ。

かれの指揮による、モーツァルトの後期の交響曲集を
若いころ、よく聴いた。
アメリカ合衆国のコロンビア交響楽団による、
ステレオ録音のLPレコードだ。
今は、ニューヨークフィルハーモニックのモノラル盤を
CDで手に入れて、寝床のiPodで聴いたりしている。

ブルーノ・ワルターのモーツァルトは、
古き良き時代の香りがする。
最近の流行とはかなり違うようだけれど、
このようなモーツァルトもまた素敵だな、と思うし、
かれは当時モーツァルトの第1人者でもあり、
けっこうスタンダードな演奏でもあったのだろう。

しかしそんなかれでも、市場性の問題か、
後期の交響曲の演奏はレコードで聴くことはできるけれど、
交響曲の全曲録音は残していない。

ところが、ソフト産業の隆盛や音楽の大衆化の影響なのだろう、
最近ではかなりマイナーな曲でも手軽に聴けるようになった。
モーツァルトの交響曲の全曲録音も、けっこう数が出ているし、
ぼくもいくつかは持っている。

台北で買ったカール・ベーム/ベルリンフィルが、
ぼくにとってはその最初の1セットだけれど、
長年に渡ってモーツァルト指揮者の代表格であった、
ベームですら、全集はこの1種類限りで、
亡くなるまでともにあったウィーンフィルとは、
全曲録音を残していないのである。
それはかれの死が1980年代の初頭であったことと
無関係ではないだろう。
こんな、もし、はそれこそ意味をなさないけれど、
かれの生存期間が、もし、15年ほど後にずれていたら、
ウィーンフィルとの全曲録音もでったい存在していただろう、
と思う。

他には、モーツァルト全集170枚組の一部であった、
ヤープ・テル・リンデン/
アムステルダム・モーツァルト・アカデミー、
チェンバロ入りのトレヴァー・ピノック/
イングリッシュコンサート、そして、安くなったので、
買うことにした、サー・チャールズ・マッケラス/
プラハ室内管弦楽団、を所有している。

10枚組のマッケラス盤などは4千円台で、むかしなら、
CD2枚組の値段だし、モーツァルト全集にいたっては、
CD170枚で、20000円ちょいだった。

たしかに、ここんところ、経済状況は悪くなっているし、
格差社会だの、生活が苦しくなっただの、
文句たらたらのひとも多いようだけれど、
バブルに沸いていた、一時のごく特殊な時代
を除けば、過去のどんな時代よりも、
日本社会は豊かになっている、のは違いないのだし、
貧しくなっているのは、不平不満をいえば、
なんとかしてくれると考える輩のこころねの方なんでわ、
とも思ったりするのだけれども、
いかがなもんなんざんしょね(^^;)


▼ちなみに、モーツァルトの交響曲に関して、
38番以降の作品は、アーノンクールのライブ盤なんぞを
よく聴く。
BGMとして、気に入ってるのんは、ピノックの全集だ。
すがすがしい、清涼感溢れる、モーツァルト、なんだよね。

Tom





写真は、映画アマデウス主演のトム・ハルス。
あの笑い方が、なんとも印象的だった(^^♪

Tomhulce





 

いまや、こんな堂々たるおっさんに。

2008年12月14日 (日)

独身税

家族といえど金儲けの邪魔はさせない。
金儲けの秘訣 ・第6条)



ぼくは独り者だ。
そして、これからも独り者だろう。
独りでいることに関して、さほど不自由を感じない
で済む世の中になった、
というのが、独りでいる一番の理由なのだと思う。

むかしの日本社会は、いろんな意味で独り者の存在
を許さなかった

社会の共通理解として、一定年齢になると、結婚すべきである、
という共同強迫観念のようなものを持っていたし、
そのために、ええ歳をして、未婚だと、気の毒がられたりもした。

近所や親戚の暇のおばさんは、やりてばばのように、
嫁の世話をしようとしたりしたし、
会社の上司や親戚のおぢさんに、
なんで結婚しないのか、と諭されたりもした。
結婚してなければ、出世が遅れたり、僻地に飛ばされたり、
信用がつかず、商売がしにくくなったりもした。
そうやって、独身者を追い込むシステムが、
社会的に確立
していたわけだ。

なんで、そうまでして結婚させなければならなかったのか、
といえば、ひょっとするともっと前からかもしれないが、
江戸時代や戦国時代から続く方法論で、
家族を人質に取る、というのんが管理しやすかったからだろう。

家族を社会的に人質に取って、妙なことをする人間を未然に防ぐ、
という合理的なシステムが効果的に機能していたわけだ。
ある意味日本は、ずっと相互監視社会だったのだろう。

戦後、アメリカ合衆国から入ってきた、
民主主義の洗礼を受けたひとたちが、
真の意味で自由にそれを運用できるようになってきたのが、
たぶんバブルの頃ではないか、と思う。
大和撫子の子女たちが、ジュリアナやら、マハラジャやらで、
パンツ見せて踊るようになった頃だ。
処女信仰の完全なる崩壊の時期、と重なっている、
といってもよいだろうか。

得ることがあれば、失うこともある

データには当っていないけれど、おそらくそのころから、
結婚しないしないひとたちが増えてきたんでわないか、と思う。
あるいは、結婚はしたけれど、離婚するひとたちも。

その結果、家族制度を前提に成り立っていた日本社会は、
急速に制度的危機に瀕することになる。

年金の問題にせよ、介護など老齢化社会の問題にせよ、
格差社会の問題にせよ、経済の問題にせよ、
実はここに大きく関係してるのんだけれど、
家族のあり方は、個人の考えに強く依存するため、
なかなか実効性のある政策が、政府といえども、
打ち出せなかったわけだ。

サスティナビリティ、ということばがある。
持続可能性、とか訳すことが多いようだけれど、
要はあるものが継続して存在できること、というようなことだ。
日本の社会は、このサスティナビリティに関して、
大きく揺らいでいるわけだ。

ぼくは友人に以前、この状況を打破するためには、
独身税、というようなものをつくらねばだめだ、
と発言したことがある。

年金のことが問題になる遥か以前、ニュースステーションで、
久米宏氏が、経済的な面だけを考えれば、自分では子を持たず、
他人の育てた子どもが払う年金の掛け金で、
老後年金暮らしをしていくのが一番得なのだ、
というようなことをいっていて、
ぼくは、かの氏は、あんまり好きではないが、現担当者に比し、
まともなことをいう確率は高かったと思っているし、
この件に関しても、実に当を得た意見ではないか、と思っている。

そういうような現実に対し、いかに政治が
社会の永続を念頭に置いたシステムを構築できるか、が、
最終的に日本国民を幸せにできるか、
ということにつながるのだとぼくは思う。

税制に関しても、今のものはそういう意味で不十分である、
とぼくは思うわけだ。
またそう思うひとが多いが故に、子を持たず、
生涯を終えようとするひとも増えてるんだと思う。
そこで解決策のひとつ、としてぼくが考えたのが、
先に書いた、独身税、ということになる。

こんなことを書くと、好きで独身でいるひとばかりでもないし、
欲しくても子のできないひともいる、
ということをいうひともでてくるだろうが、
ぼくが問題にしているのは、純粋にお金の話なんである。
好むと好まざるにかかわらず、
育児・子育てには大きな経済的負担がかかる。
単に学費だけでも、大学まで行かせれば、
現状ではひとり1千万円ではきかないだろう。

故に、子どもを持たない者は、持った者に対して、
制度的に経済的援助を行なう必要がある、と思うわけだ。
今もないことはないけれど、でんでん充分とはいえない
と思うし。
その税収の中で、不妊治療の費用なども補償すれば、
より優れた制度となることだろう。

どうせこんな案は実現可能性はないのだけれど、
実効性のある少子化対策をまぢで考えるべきとき、
がきているのは間違いないのだろう。
ぼく的には、大量の移民を受け入れるよりは、
現実的な提案だと思うのだけれどね。


▼現在の税制をあんまりいぢらないで、
簡単に独身者に多く課税するにはこんな方法もある。
課税を個人の所得ではなく、世帯単位にするのんだ。
まず、税額を50%だか、100%だか増額するような、
税額表の改定を行なう。
そして、独身者なら、そのまま課税。
夫婦者なら、2で割って、それぞれ課税。
非成人の子どもがひとりいるなら、3で割って、それぞれ課税。
累進課税なので、これでもかなり税金は独身者に重く、
扶養家族のいる世帯に軽くなる。

選挙対策だかなんだかしらないが、
今実施しようとしている定額給付金は、
事務経費ばかりかかって愚の骨頂だと思うのだけれど、
与党に含まれる、某政党の支持者に、
でんでん所得税を払っていない者が多いために、
定額減税、ではなく、給付方式になったのだろう。

門前の小僧、習わぬ経を読む、という言葉があったけれど、
払わぬ税金を返す、ために、大騒動の巻、なのだねー。。。

というわけで、写真は僧衣の小僧。

Photo

2008年12月 7日 (日)

バッハ on piano

ステーキではなく、ジュージュー焼ける音を売れ。
金儲けの秘訣 ・第146条)



真夜中、枕元のiPodから流れてくる、
グレン・グールドのバッハ演奏を聴いていると、
ぼくはとても不思議な気分に襲われる。

この作曲家が、鍵盤のためのこれらの音楽を作ったとき、
まだこの世には、現代のピアノと同じ音色を奏でる楽器は、
存在していなかった。

にもかかわらず、グールドによって紡ぎ出された音楽、
たとえば、平均律クラヴィーア曲集第1巻を聴いていると、
バッハは、この楽器のためにこの音楽を作ったのではない、
ということがどうにも信じられない、そんな気がしてくるのんだ。

もうずいぶんと昔のことになるけれど、
そもそもぼくが、ピアノで弾かれたバッハを聴きはじめたのは、
ドイツグラモフォンの、マルタ・アルゲリッチによる、
3曲入りのレコードを聴いてからだ。

当時週に一回、クラシックの新譜を紹介してくれる、
民放のFM番組をぼくは愛聴していて、
そこで紹介された曲をエアチェックした、
カセットテープで音楽をよく聴いていた。
よほど気に入ったものは、レコードを購入した。

アルゲリッチさんのバッハは、
そのよほどのなかのひとつ、だった。
そのレコードはほかのいくつかのレコード同様、
繰り返し聴いたものだ。
そして、今はCDで買い直したものをiPodで聴いている。

この演奏は、とてもすばらしかった。
バロック時代の音楽であるのにもかかわらず、とても情熱的で、
なおまた、宿命的なロマンティシズムを感じさせるような、
そんな演奏だった。
ぼくは、このレコードを聴いて、バッハにも、
マルタ・アルゲリッチさんにも、恋してしまった
ほどだ。

ぼくは、演奏会場に足を運ぶのが、
今も昔もあまり好きではないけれど、
かのじょが日本にやってきて、
このレコードのなかの1曲を演奏すると聞いたときは、
仕事を休んで、わざわざ聴きにいったりもした。

そしてこのレコードに関して、
ぼくはもうひとつ特別なインプレッションを受けた。
それは、黒田恭一という評論家によって書かれた、
レコードの解説、いわゆる、ライナーノーツによってだ。

かれはこういう。

リパッティが1950年当時、
ピアノでバッハをひいたときよりも、
(今の演奏者が)ピアノでバッハをひくことが
むつかしくなっていることを(われわれは)思い出すべきだ。
なぜ、いま、敢てピアノでバッハなのかを、
(ピアニストは)その演奏であきらかにしなければならない。
ききては、まず、それを、ききたがっている。
・・・

本当のところ当時のぼくはただ、漫然と耳に心地いい音楽を
聴きたかっただけだったのだけれど、
演奏家はそんな風な責任を背負わされて、
ピアノを弾いたりしていたわけなんだあ、
と、妙に感心したのを覚えていているし、
またたしかにそんな意味合いで、
芸術や、いろいろな事象に接することもまた、
意義深いことかもしれない、と、
若かったぼくは、思ったものだ。

このレコードが出た当時、たしかに亡くなった、
グレン・グールド以外、ピアノでバッハを弾くひとは
あまりいなかった。
そしてグールドは、あまりに特別で、また特殊であったために、
一種治外法権的に、独自に存在していたのんだ。

このレコードが出たときよりも、最近は、
ピアノによるバッハの演奏、を収めたCDが多く出ている。
マルタ・アルゲリッチさんの、この演奏がエポックを切り開いた、
というのは、贔屓目に過ぎるだろうか。

もちろん、グールドの早すぎる死が、ある意味、
ピアニストたちにかけられていた、呪いを解いた
ということも否定はしない、のだけれど、さ。

ただ、たとえどんな楽器で演奏されようとも、
偉大な音楽はやはり偉大
なのだ。

ピアノによるバッハを聴いて、心底そう思うのであることだよ。


▼いまや年齢的には、おばあさん、の領域に近づきつつある、
マルタ・アルゲリッチさんだけれども、
若いときはけっこうもてもてで、
3人の子持ちながら、それぞれ父親が違う、
という離れ業をやってのけた、らしい。
アルゲリッチさんの偉業に合掌(-人-)

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そんなかのじょの自社のソロを、
ドイツグラモフォンがが最近纏めて売り出した。
そのキャリアの偉大さ、にもかかわらず、
たったの8枚組みでしかない。
それも驚き、なのだけれど、もっと驚愕したのんは、
アマゾンでの3000円ちょいという、その値段だ。
1枚の値段ぢゃんかよー、とかいいつつ、
やはり買ってるおっさんがいるんである^^;

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