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2008年6月12日 (木)

昇天

死んだ顧客は、生きている奴ほど買い物しない。
金儲けの秘訣・第10条)


実家で飼っていた猫が死んだのは、
骨折してから1ヶ月余りたった雨の日だった。

以前にも書いた長生きのかのじょは、
定かでないが20年くらいは生きていたのだけれど、
さすがに最近衰えが激しく、前日まではよたよたしながらも、
ご飯をねだっていたのだが、朝には息がなかったそうだ。

ここんとこ動悸が激しかったりしてもう長くないかも、
と母親は思っていたらしいが、
それにしてもこんなに突然に死んでまうとは予想外だった。

志賀直哉なら、蜂が死んでも名作を生み出したりするんだろが、
文豪でないこの身の悲しさ、
ぼくは世俗的なことしか書けそうにない。

猫の死に際し、思い出したのは、たしかお寺だったと思うけれど、
ペットの供養代金に対する所得に課税した税務署に対して、
宗教法人側が、宗教の自由をたてに裁判を起こした、
というような話だ。

この話に関しては、いくつかの論点が存在する
ような気がするのだけれど、ぼくが気になったのは、
この場合、誰の信仰が問われているのか?
ということだ。

おそらくペット自身の信仰心が問題になっているのではない、
と思う。
さすれば、民法上は物品と同等の扱いを受けるペットの供養に、
人間の都合で宗教を持ち出すと、
使わなくなったタンスやこたつなどの物品に関して、
戒名をつけたり、葬儀を営んだり、
ということも宗教活動になってくるのか、
という問題も起こってくるだろう。
現に、針供養や人形の魂を慰めるお寺、
なんていうのもあったと思うし。

宗教の名の下に税金逃れをするような輩がいるために、
税務署も課税に関して、頭を悩ますのだろうけれど、
これにはさらに、課税されると信仰の自由がなくなるのか
という別の問題もはらんでいる。
そんな理屈が通用するならば、
わずかな収入に対して、課税されているぼくらは、
人権を蹂躙されたり、生存権を脅かされたりしている、
というような主張もできそうだ。

もうひとつ、ペットの死に際し、
喪中ハガキを出すひとがいる、という話も思い出した。
俗人たるぼくの家族はもちろん何もしない。
葬儀も通夜も近親者への連絡も。

そのために猫は天国にいけないのかもしれないが、
ぼくも同様に天国にはいかないつもりなので、
いずれ、かの猫とあうこともあろうと思う。

かの猫のために、宗教的な行為としてではなく
合掌(-人-)


▼ねこたん@エバーエア
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コメント

同志、こんにちは。
まずは愛猫さんのご冥福をお祈りさせてくださいまし。
宗教云々はともかく、縁あって家族として暮らしたものとの別れはやはり寂しいものですね。
私も昨年愛鳥と別れたばかりですのでお察し致します。
常々人の死に接する機会が多いせいか、やはり死後の供養などは死者のためではなく生者のためにあるのではないかとつくづく感じるのです。
だって死ぬのもしんどいけど、残されるのだってめちゃくちゃしんどいですものね。死ぬ方は死んだら終わりだけど、残されるものは自分が死ぬまでその喪失を抱えて生きるんですから。
死者との別れ、そしてそれに対する悲嘆の過程をきっちり済ませなくては残るものは生きていけないのではと思うのですよ。
結局宗教云々はどうでもよくて、残されたもののグリーフケアがそれぞれのかたちでなされることが一番大事なんでしょうね。

同志、まいど^^

>まずは愛猫さんのご冥福をお祈りさせてくださいまし。
ありがとさんです(-人-)

>私も昨年愛鳥と別れたばかりですのでお察し致します。
ご愁傷様でやした。。。(-人-)

>縁あって家族として暮らしたものとの別れは
>やはり寂しいものですね。
あっしは、そんなに猫と親密だったわけではありやせんが、
こんな風には思いやしたねー。

ただ最近あっしも歳をとったせいか、
よく思うことは、どんな生命体もいづれは死ぬ。
ただ早いか遅いか、その順序が違うだけだ、と。
いずれ自分もそっちに逝くのだし。
あんまり生きることや死ぬことを
たいそうに考えないようにしようと。
んで、生きてる間は、なるべく楽しげにしてようと。
こんなあっしは、やっぱりお気楽なんでしょうか^^;

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