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2008年6月29日 (日)

養鯨

ステーキではなく、ジュージュー焼ける音を売れ。
金儲けの秘訣 ・第146条)



文化的衝突
、といえば、たいそうだけれど、
最近、他国の文化にあえていちゃもんをつける、という行為が、
タブーでなくなって来たかのように思える事例に数多く出会う。

日本の調査捕鯨も、ある種のひとびとから見ると、
許されざる蛮行にみえるらしく、
テロさながらの抗議活動を正当な行為とみるむきもあるようだ。

しかしながら、その国では、カンガルーを
適正な数まで減らすために、
踏み殺すような行為が今までわりと普通に行なわれてきた、
というような映像が、インターネット上で流れ、
また物議を醸している。

またその国は、牛肉の大輸出国であるけれど、
牛を屠殺することは、なんら問題ではないらしい。

あるいは、闘牛、といって、衆人環視のなか、
牛を殺戮することをご立派な芸術として、
愛するひとたちもいるが、
そこには、とくにかれらが抗議活動を行なっている様子はない。
たぶん、牛は馬鹿で、喰われたり、殺されたりするために
生まれてきたから問題ない、
とかれらの文化は規定しているからなんだろう。

牛を聖なる獣として、保護している文化もあるのだが、
インド人もびっくり、とはまさにことことだ。

犬を喰らう文化もまた存在する。
捕鯨に関して、鯨は喰うからいいんだ
という多くの日本人はいうだろうが、
食犬に関して、同様に喰うからいいんだ、といえるかどうか、
ということを考えたりしてみる。

また、最近でこそそういう食文化は減少しているのだろうが、
レクター博士のように、職人気質、ならぬ、
食人気質をもつひとびともまた、かつては、存在した。
これも、喰らうからいいんだ、といえるかどうか。

どうあるべきなのか、何が正しいのんか、
というのは現時点では正直わからないのだけれど、
他人の文化を完全に尊重するには、
地球が狭くなりすぎた
のだろうし、
またあるいは、自分の価値観にそって、
相手の文化を攻撃したり、侵略するすることは
もっと許されざる行為である、
というルールはすでに完成しているようにも思える。

今は、この相反するふたつのスタンダードを
解決するための、新たな規範
を全地球規模で
模索している最中なのだろう、きっと。

とりあえず、日本は、私有地内で、
養鯨を始めてみてはどうかな、
と解決策を考えてみたりする、おっさんなんである。


▼最近、某団体の日本支部が鯨肉を盗み出したうえに、
窃盗罪は成立しない、とのたまったらしい。

そんなに鯨が食べたかったのか

と思ったら、どおもそうではないらしい。
そのうち、鯨のためには、強姦も殺人も行なうのでわないか、
と疑われるような行動はとるべきではないのでないか、
と思うのだけれど、こんなのはきっと、
野蛮人の勝手な理屈なんだろうね(^^;)

写真は、ちゃんちゃこの空飛ぶ鯨。

Photo


2008年6月25日 (水)

めんちゃい

第一印象の重要性を軽く考えるな。
金儲けの秘訣 ・第241条)



ヴァイオリン協奏曲、とは、独奏ヴァイオリンと
オーケストラのための楽曲で、
古くから現代に至るまで、多くの名曲が存在する。
オーケストラには、2群に別れたヴァイオリン・パートが
存在するが、それとはまた別に独奏のヴァイオリン奏者を招き、
演奏されることが多いものの、
達者な演奏者の多いオーケストラでは、
そのオーケストラのコンサートマスター、
つまり、第1ヴァイオリンの首席奏者が、
独奏者を務めることもあるようだ。

そのヴァイオリン協奏曲のなかで、
レコードやCDの種類が1番か2番目に多い取り合わせが、
たぶん、メンデルスゾーンチャイコフスキーの、
ヴァイオリン協奏曲のカップリング盤だろうと思う。
これを昔、めんちゃい、なぞと呼んだりした。

レコード時代でも、ちょうどレコードの両面に
ぴったり入る取り合わせだったし、
両曲とも、親しみやすいメロディにあふれた、
ポピュラーな名曲だったしさ。

憂いをおびた、短調のメロディで始まる、
優美なメンデルスゾーンのそれに比べ、
明るく豪華なチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、
今でこそ大人気曲であるけれど、
初演前には、演奏不能、と演奏者からいわれ、
初演直後は、批評家からこてんぱんに貶された、らしい。
なんと、悪臭ふんぷんたる曲
とまでいわれた、とのことだ。

その後、初演者の努力でだんだんと認められる
ようにはなったらしいけれど、作曲者として、
臭い、と貶された気持ちはいかがなものだったろう、
とチャイコフスキーの無念な気持ちをおもんばかってしまう。

ただ考えようによっては、ある種の臭み、というのは、
芸術にとって、必要な要素なのかもしれない、
とも最近のぼくには思えるようになってきた。
臭い、は決して褒めことばではないが、
意外と、マニア受けする臭み、というものあるのだろうと。

その臭みの良さがわからないのはまだまだ青い、
と当時のチャイコフスキーがいえれば、よかったんだけどねー、
と思う、最近は、臭みのわかる、おっさんなのである。



▼臭い、といえば、西洋人は、肉食の故か、
概ね体臭が濃いイメージがあっしにはある。
わきがのひとも多く、また、わきがの匂いが好き
なひとも多い、と聞いたことがある。
これも、美しい連鎖、なんでしょうか(^^;)

写真は、タイとミャンマーの国境で、同じ舟に乗った、
マッチョな西洋人のおっさん。

Farang

2008年6月21日 (土)

卓袱台のある風景

家族といえど金儲けの邪魔はさせない。
金儲けの秘訣 ・第6条)



以前インターネットの掲示板で、
日本で卓袱台の似合う男といえば、
というような話が載っていて、
ベスト3は、たしか、

星一徹氏、メトロン星人氏、磯野波平氏

だったと記憶している。

星一徹氏、というのは、劇画巨人の星に登場する、
主人公、星飛雄馬氏の父君で、元巨人軍の選手だったひとだ。
かれは、戦争で肩を痛め、巨人を去ったあと、
貧しい生活の中で、息子を巨人軍の選手に育て上げた。

しかしながら、その方法はかなりのスパルタで、
食事中の息子を殴るときに卓袱台をひっくり返したシーンが、
あんまりにも有名で、かれがこのなかにはいっているわけだ。

メトロン星人氏は、ウルトラセブンに出てくる宇宙人だ。
ウルトラセブンの本来の姿である、
ウルトラ警備隊のモロボシダン氏と、
木造アパートに置かれた卓袱台で語り合う
シーンが、
印象的だった故にこのリストに入っているのだろうと思う。

そして、磯野波平氏は、磯野家の家長であり、
サザエさんの父上だ。
一徹氏とは違い、卓袱台をひっくり返したりはしないが、
そこはかとない威厳を湛えているのは、
さすが、といっていいだろう。
そして、日本で一番有名なお父さんのひとり、である。

さて、そのサザエさんなのだけれど、
ぼくは、いつのころからか、嫌いで見なくなった。

日曜の夕方から憂鬱になる、サザエさん症候群
のゆえではなく、
そこにある平和な家庭の姿を憎むようになったから、だ。

リストラにも怯えず、のんきに働く波平、マスオ。
パートもいかず、それでも豊かに暮らす、
専業主婦の、フネとサザエ。
そこには、熟年離婚も核家族もない。

都内なのに、空き地で遊ぶカツオたち。
しかもこどもたちは永遠に、ぐれる年齢にならないのんだ。
まさに無間地獄のようなシアワセ
とでもいうような状況をずっと展開し続ける、サザエさん一家。

むかしはたぶん、そんな日本の家庭も実在したのだろう。
あるいは、模範的な家族像でもあったのだろう。
けれど、あんな日本はもうすでにない。
あるいは、かなり形を変えてしか存在できていない。

にもかかわらず、サザエさん一家は、電気製品だけは、
進歩
しているものの、えんえん同じ線路上を
ぐるぐる幸せなままにまわっている。
そのような状況になんとなくぼくは、
嫌悪を感じてしまったわけなのだ。

将来、惚けた波平老人の介護問題や、
スーパーで万引きGメンに捕まるフネさん、
リストラされ、職安に通うマスオさんの苦悩、
不倫するサザエさん、
リーゼントヘアーに改造車で珍走するカツオ、
援助交際するワカメちゃんや、
引きこもるタラちゃんの青春が描かれるとき、
ぼくはまたきっと、サザエさんをみることだろう。

ただ、古き良き昭和時代を象徴する、
かの卓袱台が健在な限り、
サザエさん一家があの時空から抜け出す
こともまた、ないのだろうな。


▼さあーーーって、今週のサザエさんは、

アナゴ氏、横領で逮捕さる、
ワカメさん、ヤンママ仲間とカラオケへ、
イクラくんの大学受験、

の3本です。
んがとっと(←放送禁止?)

写真は、卓袱台で語り合うモロボシ氏とメトロン星人氏。
タイで買ったVCDからなんで、会話の内容は不明^^;

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2008年6月17日 (火)

らんどせる

良くない行いも処罰はされない。
金儲けの秘訣 ・第285条)


ぼくは厭きていた。
骨折してから、固定された右腕を庇いながら、
実家と職場を通うだけの日常に。
これはそんなある日に目撃したものの記録である。

ま、そんなたいそうなことでもないんだけど。

仕事帰りの電車に乗ろうとしたときだから、
時刻は夜8時過ぎだったろうと思う。
電車の扉から乗るときに半ズボンの脚が見えた。
知り合いの外国人のおっさんのことを連想させる脚だ。
その外人のおっさんは、年齢不詳だけれど、
たぶんぼくと同じような歳回りで、
夏はいつも半ズボンなので、かれの脚は見慣れてる。
つるっとした、筋肉質の脚

しかしながら、今は2月だ。
電車の半ズボンの乗客をみて、
反射的に元気がいいおっさんなことだなー、と思い、
でも、どんなおっさんかわからないので、
そっちの方をみないようにしながら
空いた席に坐ったのだった。

オレの脚になんか文句でもあんのか、ゴォラア、
という展開を避ける、サラリーマンの本能
とでもいう行動様式が、好奇心にも勝って、
身についている
わけだ。

降りる駅が近づいて、本を読んでいた顔をふと挙げると、
半ズボンのおっさんが見えた。
さっき脚だけ見えた、例のおっさんだ。

しかしかれは、ランドセルを背負っていた

ランドセルを背負った小学生のような、
なりをしたおっさんだった。
半ズボンは、小学校の制服のようにみえた。
しかも、メガネをかけていて、遠視用というか、
かれがほんとにおっさんであれば、
それは老眼鏡、ということになろう。

異様に老けた小学生か?
それとも、小学生の扮装をしたおっさんなのか?

次の駅でぼくも、その謎のおっさん小学生も降りた。
その後、ぼくは実家につくまで、かれのことを考え続けた。

かれは何者だったのか。。。
何かの罰ゲームだったのか?
それともこんなファッションがぼくの知らない場所で
ひそかにはやってるのか?

結論は出なかった。
出なかったけれど、こう考えることにした。

きっとこれは、腕を骨折して難儀しながら、
しかも、日常に厭きてきていたぼくを
喜ばせようとした、神さんの配慮なんだろう、と。

その後、そのおっさんと2度と出会うことはなく、
また、職場のひとに訊いてみたけれど、
同様の目撃情報はないようだ。

やはり、神さんの贈り物だったか。

でも同じ大人のランドセル姿でも、
レイダーマンって唄っていた、
戸川純だか京子だかはかわゆかったよな、
どうせなら、そのようなものがみたかったのだが、ね(^^;)


▼以前転記した、

人生という果てしのない旅---五月みどり

という萬流コピー塾でのコピーでもわかるとおり、
ランドセルは、小学生しか装着しない、
というお約束なものだから、成立する話なのだけれど、
じゃあ、なんで小学生のみがこれを背負っているのか
ということを実はぼくは知らない。
なにか小学生が背負うのに、優れた側面があるから、
なのだろうけれど、そんなに優れたものならば、
大人が背負ってもよさそうなもんだが。
ネクタイ、と同様、それは記号論の世界の事物
なのかもしれないな。

写真は、タイの田舎の小学校。
Photo

2008年6月12日 (木)

昇天

死んだ顧客は、生きている奴ほど買い物しない。
金儲けの秘訣・第10条)


実家で飼っていた猫が死んだのは、
骨折してから1ヶ月余りたった雨の日だった。

以前にも書いた長生きのかのじょは、
定かでないが20年くらいは生きていたのだけれど、
さすがに最近衰えが激しく、前日まではよたよたしながらも、
ご飯をねだっていたのだが、朝には息がなかったそうだ。

ここんとこ動悸が激しかったりしてもう長くないかも、
と母親は思っていたらしいが、
それにしてもこんなに突然に死んでまうとは予想外だった。

志賀直哉なら、蜂が死んでも名作を生み出したりするんだろが、
文豪でないこの身の悲しさ、
ぼくは世俗的なことしか書けそうにない。

猫の死に際し、思い出したのは、たしかお寺だったと思うけれど、
ペットの供養代金に対する所得に課税した税務署に対して、
宗教法人側が、宗教の自由をたてに裁判を起こした、
というような話だ。

この話に関しては、いくつかの論点が存在する
ような気がするのだけれど、ぼくが気になったのは、
この場合、誰の信仰が問われているのか?
ということだ。

おそらくペット自身の信仰心が問題になっているのではない、
と思う。
さすれば、民法上は物品と同等の扱いを受けるペットの供養に、
人間の都合で宗教を持ち出すと、
使わなくなったタンスやこたつなどの物品に関して、
戒名をつけたり、葬儀を営んだり、
ということも宗教活動になってくるのか、
という問題も起こってくるだろう。
現に、針供養や人形の魂を慰めるお寺、
なんていうのもあったと思うし。

宗教の名の下に税金逃れをするような輩がいるために、
税務署も課税に関して、頭を悩ますのだろうけれど、
これにはさらに、課税されると信仰の自由がなくなるのか
という別の問題もはらんでいる。
そんな理屈が通用するならば、
わずかな収入に対して、課税されているぼくらは、
人権を蹂躙されたり、生存権を脅かされたりしている、
というような主張もできそうだ。

もうひとつ、ペットの死に際し、
喪中ハガキを出すひとがいる、という話も思い出した。
俗人たるぼくの家族はもちろん何もしない。
葬儀も通夜も近親者への連絡も。

そのために猫は天国にいけないのかもしれないが、
ぼくも同様に天国にはいかないつもりなので、
いずれ、かの猫とあうこともあろうと思う。

かの猫のために、宗教的な行為としてではなく
合掌(-人-)


▼ねこたん@エバーエア
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2008年6月 8日 (日)

春の祭典

のどが渇いている客はいい客だが、飲んでる客はそうでもない。
金儲けの秘訣 ・第163条)



ストラビンスキー、という作曲家が若き日、
作った名曲に、春の祭典、というバレエ音楽がある。

ぼくが学生時代、クラシック音楽の人気投票を
当時3誌ほどあった、FM雑誌のひとつがした結果、
確か、管弦楽曲の1位がホルストの惑星
2位がこの、春の祭典、いわゆる、ハルサイだったように思う。

今では人気曲のこのハルサイも、
初演において、激しいセンセーション、をもって迎えられた。

それも悪い方の。

不協和音に満ちた、この複雑な楽曲は、
古代の、どこか土俗的な感じの宗教を題材にしており、
当時の一般的なバレエファンや音楽ファンの
理解するところではなく、怒号のなかで、
音楽が聞こえぬほどの状況をだった、ということだ。

今ではこの曲を理解しないクラシック音楽ファンは、
むしろ少数派で、ぼくも、大好きな曲のひとつであり、
CDも、サー・コリン・ディビス指揮のものと、
ピエール・ブーレーズ指揮のものと、
ストラビンスキー自身の指揮による、3枚を所有している。

機会があれば、生でも聴いてみたいとさえ思っている。
ストラビンスキー的春の祭典、は愛しているわけだ。

しかしながら、日本には、ぼくが嫌いな春の祭典、がある。

花見、という奴だ。

桜の花が嫌いだ、というわけではむろんない。
あんな美しい花は、またとない、と思うのは、
他の日本人とかわるところはない。

ただ、多数の酔っぱらいが、花の周りに集っているのが、
嫌いなのだ。

酒飲むな、とはいわないのだけれど、自分の敷地でもないのに、
ブルーシートを敷いて、他者を排除し、
集団で大騒ぎするのは、いかがなものか、と思う。

ぼくのように、ただ花を見たいにんげんは、
遠見に桜を愛でるしかないのんだ。

この花見という、日本の風習は、
ストラビンスキーのハルサイ的世界よりも、
野蛮で不協和音に満ちた世界を表現している
ように思えてならないんだけれど、
これは、友達のいないおっさんの、僻みですかいな(^^;)

Sakura
地上の醜い光景を写さぬために、
空に向けて、1枚。。。



▼ちなみに当時あった3誌のFM雑誌とは、
FMfan、週刊FM、FMレコパル、だったよな。
エアチェックのために、買っていた記憶がある。
ちなみに、エアチェック、とは、
ラジオ放送をカセットテープその他、
録音可能な媒体に記録することで、
けっこう当たり前にしていたよ。
まだ、日本はまづしかったのね。
そのために、FM各紙は、カセットレーベルなんかを
付録につけていたなー。
ちなみに、カセットレーベルとは、、、
って切りないな、古い話はじめると。(^^;)

2008年6月 4日 (水)

キョコン

良い耳たぶ(フェレンギ人の性感帯)の前では、
どんな七枚舌も乾いてしまう。
金儲けの秘訣 ・第266条)



大昔、萬流コピー塾で糸井重里氏が書かれていて、
なるほど、とちょいと感銘した話がある。
かれ曰く、この世にはきっと、
巨根の遺伝子をもった女性
もいるのだろう、と。

あえて説明するならば、巨根とは、通常人より
かなり肥大気味の男性の身体のとある部位のことで、
その所有者は、一般的に、憧憬や尊敬、場合によっては、
ある種の畏怖とともに見られるのだろう、と思う。

ダウンタウンの松本人志氏がむかしなにかの番組でいっていた、
浜田氏のことを、ダウンタウンのちんちんでかい方
でわ、自分は、というと、
ダウンタウンのちんちんめちゃでかい方
というギャグ(?)も、前記のような前提があるからこそ、
成立する、ことば遊び、なのだろう。

また、古来の巨根伝説、に、弓削道鏡、のんがあるけれど、
これも、真実かどうか極めて疑わしい、俗説のようだ。
むしろ、前述のような前提から、逆につくられた話である、
というのが、真相に近い、らしい。

それがほんとうに女性にとっていいものなのかどうなのか、
は知らないが、男性にはそれがある種の序列を形作る、
根元的な基準であることは、
古今東西を問わず、あるのだろうと思う。

つまり、ひとは、この場合は、おとこは、長い歴史のなか、
コンプレックスとともに、生きてきたのだ。
そしてその証が、数々の巨根伝説に結晶化
されているのだろう。

昔、山本直純という音楽家が、オーケストラをバックに、
大きいことはいいことだ
と大型サイズのチョコレートだかを宣伝していたけれど、
本件に関して、ほんとに、大きいことはいいこと、なのか、
勇気ある、女性の意見を訊いてみたい、
大きいことに縁のない、おっさんなのである。


▼ちんちんのでかい方、の対立概念として、
ちんちんめちゃでかい方、という概念を発想した、
松本人志氏の言語感覚に、当時ぼくは驚いたのを覚えている。
中身はいかなるものか知らないが、
かれの、ビデオのタイトルである、寸止め海峡(仮)、
というのも、不気味にぼくの心のなかに沈殿している。
なんか凄くない、寸止め海峡、ってことば(^^)

Photo





写真は、タイの田舎で見た、
まっちゃんに似た船頭さん。

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