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2006年11月29日 (水)

医者は神でなければならないのか

子どものころ、母親がよく台所で、
どんがらがっしゃん、と破滅音をたてて、
食器を割っていた。
生意気ながきだったぼくは、それをからかったりしたのであるが、
あるとき、母親は、それに対して、こういったのを憶えている。

台所に立って、いつもいつも茶碗を洗っていれば、
割ることもあるの、と。

いつだったか、職場でいっしょに働くおばさんが、
ぼくの湯飲みを割ってしまったことがあった。
かのじょは、スミマセン、弁償しますから、
と言ってくれたけど、ぼくは、母に教わったとおり、こう答えた。

茶碗を毎度洗っていれば、割ることもあるでしょう。
いつも洗ってくれてありがとうございます、と。

医療事故のニュースが流れるたびに
ぼくは、いろいろと考えさせられてしまう。
たしかに人の命が懸かった仕事で、
ミスは許されない、という論理は一見正しそうに見える。

100パーセントどんな場合も完璧に判断し、
完璧に働ければ、どんなにいいことだろう。

しかし、である。

結果として、あのとき、ああしておれば、
ということはどんな分野の仕事にもつきものだ。

技術的なことはさておいたとしても、
いつも100パーセントの判断が神ならぬ、
人の身でできるものなのか。

ひとの命が懸かっている限り、そうあるべきだ。

と、口で言うことは簡単だ。
しかも、正論かもしれない。

実際問題、そんなことが可能か、と問われれば、
無理なんではないかい、とぼくは思うのだ。

もちろん、わざとミスをしたり、手を抜いたり、
悪意をもって医療行為を行なったりした結果、
自分が死んだりしたら、ぼくだってばけてでてやろう
ときっと思うだろう。

しかし、一生懸命していたにもかかわらず、
起こってしまったミスを
よってたかって糾弾してよいものなのかどうなのか、
正直、ぼくには判断がつかないのんだ。

もちろん、改善の余地があることは、
改善するべく努力はして欲しい、とは思う。
しかし、医療従事者は、概して労働条件が悪く、
お医者さんにしても、看護士さんにしても、
働きすぎていることがわかっていても、
代わりがいないばっかりに改善できないことも多々ある、と聞く。

そうなると、システムの側で対処する必要があるのだろうが、
どうするのが、ベストなんだろう。
それが、今の保険制度をやめて、アメリカ合衆国のように、
馬鹿高い医療費を払わねば、医者にかかれないような形なのか、
それとも、医療従事者の数を増やすべく、
誰でも簡単に医者や看護士になれるようにしたり、
外国人の看護士を容認したりする形なのか、
それとも、医療従事者は全員公務員にして、
事故が起こったら、国が責任をとるような形なのか。
なかなか正解はみっからないような、気がするのんだ。

少なくとも、現在のようなシステムでは、
医療従事者へのなり手がなくなるような、
そんな時代が遠からず来るような、危機感をぼくは憶える。

現に産科医不足はかなり深刻な事態らしいし。

ほんとうに行けども行けども、目医者ばっかり
なんて笑えない事態
を心配するぼくなのだった。

ぽきん、金太郎。

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2006年11月27日 (月)

幸せの質量保存の法則

幸せの総量は一定である、といつの頃からか思っている。
つまり、幸せとは相対的なものであり、
絶対的な価値基準では計れない
、ということだ。

もう少し、わかりやすくいうと、
自分を取り巻く世界の中で、
だれかが幸せになると、自分はその分少し不幸になる。
自分に変化がなくても、自分以外の全員が幸せになれば、
自分は相対的に不幸になる、と思っているのである。

たとえば、自分はカローラを持っていた、とする。
まわりは、全員自転車ももっていない状況だと、
きっとカローラを持ってる自分はなんと幸せなんだろう、
と思うことだろう。
しかし、まわりが全員ベンツとフェラーリとレクサスを
運転手付きでもっていたなら、
きっと自分は不幸に感じるのではないか、と思う。
幸せの基準が相対的、とはそういう意味なのだ。

今の日本の人々は、基本的に30年前のひとよりは、
たしかに豊かだと思う。
100年前のひとに比べると、もっと豊かだろう。
でも、格差社会が広がって問題だ、と思っている人は多いようだ。
その格差ゆえに、不幸に感じたり、犯罪を犯したり、
自殺をするひとさえいる。
でも、100年前のひとが今のひとをみたら、
なんでかれらが不幸がってるのか
きっと理解できないだろう、と思うのだ。

これをつきつめて考えれば、ひとはいつまでたっても、
どんなに物質的に豊かになっても、全員が幸せになる、
ってことはできないのではないか、という結論になってしまう。

たとえは、わかりやすさを考えて、物質的なことに限ったが、
精神的なことを含めると、事態はもっと複雑で、
わかりにくくなったりするんだろう、と思う。

世界中の人がみんな充分に幸せになることなんか、
結局のところ、できないのではないか、ということになれば、
いったい、ぼくたちは、どこに向かって進んでいけば
いいのだろうか

わたしは完璧に幸せだ、というひとがいたら、
意見を訊いてみたい、というような気もするのだが、
妙な宗教に勧誘されてもいやなので、踏み切れないでいる。
しかし、結局のところ、そのへんに答えがあるような気も
しないではない。

自分で考えるのをやめて、誰かに幸せの形を決めてもらう、
ということが、最終結論かもしれない、ってことだ。

もし、それが幸せの、最終的な模範解答であるのなら、
いいや、ぼく、適当に不幸でも、と思うのだけれど、
こんなことばっかり考えてるのんが、
そもそもおめでたいのんだろうね(^^;)



▼DS9の保安チーフのオドー。
かれは、流動体生物なのをいいことに、
本物の質量保存の法則を守ってないっぽい。
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2006年11月25日 (土)

鳥インフルエンザ

タイの話ばっかり書いているとたまに誤解されたりすんのだけど、
ぼくは、日本で普通に働く勤め人だ。
普通、なんて書くと、普通の定義は?、ってことになるのんで、
もっと書くと、9時前には出勤して、
夕方になると仕事を終えて帰る、そんな勤め人だと書いておこう。
でも、こういう勤務形態がほんとに普通かどうかは
知らないけどさ。

いい歳をして独身で、ほかにすることもないのんで、
まとまった休みのときは、タイやその他近隣地域に出かけて、
のんびりすごす、といった生活をもう数年続けている。
このまま老後はタイか、東南アジアのどっかで暮らしてもいいな、
とも思ってる。

今年の正月も、タイに出かける予定だったし、
実際そのとおりにしたのだけれど、
そんなぼくに立ちはだかる、ひとつの問題があった。

鳥インフルエンザである。

職場で、緊急の要件がないかぎり、
鳥インフルエンザの汚染国にいかないこと、
ってお触れがでたのんである。
それがたとえ、休暇であったとしても認めん、ということだ。

ぼくも大人だし、意味のある命令には従うつもりだけんど、
今回のこの命令にはとても意味があるようには思えなかった。

だが、実際に昨年の10月、バンコクに出張したところの、
同じ職場のひとは、その後、その通達を守って1週間職場に
出てこなかった。

自発的に。

通達はやむをえない事情で行く場合は、
その後、1週間症状がでないかどうかを確認するか、
鳥インフルエンザのウィルス検査をしてから出勤すること、
とあったのだ。

バンコクにも同じような意味のない通達を出すやつがいて、
バンコクから、日本のどっかへ出張しただれかが、
1週間バンコクでも自宅待機していたら、おもしろいな、
と思ったりもした。
日本だって、汚染国のひとつだし。

ぼくは、自宅待機なぞする気はさらさらなかったものの、
とりあえず、タイとカンボジアに出かけていった。

もちろん、事前に大病院の内科の部長先生にも意見を聞いた。
その先生によると、インフルエンザウィルスというものの性質上
むしろ、暑い国の方が、インフルエンザは流行りにくい
とのことだった。
インフルエンザに罹患すれば、すぐ発熱などの症状がでるので、
1週間の自宅待機など、医学的には意味がない
ともおっしゃられた。
しかも、鳥インフルエンザのウィルス検査は、
日本では東京の某機関の1箇所しかできへんかったんちゃうかな、
とのことだった。

それでもぼくは、帰りの空港検疫所で
一応、医療相談を受けることにした。
ぼくは、列の最後に並んだのだけれど、前の人は、
下痢が続くだとか、けっこう深刻そうな相談をしており、
なんとなく、この検疫所が一番妙な病原菌が
わいてそう
な雰囲気さえ漂っていた。

医者は、どうされました?
と型どおりの質問をぼくにした。
忙しいためか、ぼくはもちろん、医者も立ったままだ。

あの、鳥インフルエンザのウィルス検査をしたいんですけど。。

医者は、熱があるんですか、と訊いてきた。

いいえ、ぜんぜん。
でも、職場で汚染地域に出かけていったら、
そうするように言われたんですけど。

あのねー、ウィルスもないのに検査できるわけないでしょぉお

ぼくは、この忙しいお医者さんに怒られたのだった。

ぼくは別にからかいにきたわけでも、
ノイローゼなわけでも、ないんですよ。
わけのわからないことを言ってるのんは、
ほんとはぼくぢゃない
んですよー。。。

ぼくは、こころのなかで、弁解したのだった。

それから1年、また暮れと正月は、
また汚染地域に出かける予定だ。
今年は、できれば、お医者さんを怒らせた、
あの通達がまたでないことを祈っている。

ぼくだって、またおまえかー、っていわれたくないものね^^;


▼SARSのときもそうだったけれど、この手の新感冒に対して、
職場の上層部にいるような老人たちは、
極度の恐れを抱いているようだ。
あっしたちより、よほどしぶとそう、なのだがね^^;
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2006年11月23日 (木)

そして僕は満月をみることによってクミコの生理が近いことを
思い出した。
でも結局のところ、それももう僕には関係のないことに
なってしまうのかもしれない。
(中略)
「もし奥さんに他に恋人がいて、その人と一緒にどこかに行ってた
としても、ねじまき鳥さんはまだ奥さんが好き?
奥さんがやっぱりあなたのところに戻ってきたいと言ったら、
ねじまき鳥さんは奥さんのことを受け入れるかしら?」
(村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」第2部
2章 この章では良いニュースはなにひとつない、より)


月、というものは不思議な星だ。
いわゆる、衛星、なのだけれど、
衛星としてかなり大きな天体、であるらしい。
しかしながら、惑星、と呼ぶには小さすぎ、
また、地球と月との共通重心が、
地球の表面よりなかにあるために、この2者の関係は、
ガミラス・イスカンダルのような2重惑星ではなく、
惑星衛星とするのが現在では一般的、なのだそうだ。

しかしながら、それは現在の時点での定義に過ぎないので、
この間の冥王星の惑星落ち事件のような変更は、
今後も起きる可能性がありえるのだろう、と思う。

月は、地球上の自然現象や、生命体に大きな影響を
与えてきたのも、その大きさゆえだ。
もちろん、人類もその範疇の外にはいない。
女性の生理も、むかしは優雅に、月のもの、なんていったものだ。

ところで、男性の精子とは違って、
女性の卵子は成熟してからつくられるわけではない、のだそうだ。
生まれつき、ちゃんと体内に貯蔵され、
成熟によって排出されるようになり、
妊娠が可能になるシステム、であるらしい。

聞いたところによれば、その数は約400個、
15歳で初潮が来て、妊娠することなく、
きっちりと28日ごとに1個ずつ排卵されれば、約30年、
45、6歳で、卵子はなくなってしまう勘定になる。

その排出周期が、約28日ごとであることが、
空に浮かぶ月とどの程度関係があるのか、
それが人間だけなのか、ほかにもそういう生命体があるのんか、
ぼくは知らないが、そんなことを考えたところで、
そもそも今は、そんなことがらがぼくには影響を
与えない人生を送っているんだったんだ。

月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ
我が身ひとつの 秋にはあらねど

という歌があったけれど、
我が身ひとりの秋、というのも、
ちぢに物こそ悲しかったりするんだよな、
風雅にまとめてみる、晩秋なのだよ。


金儲けの秘訣、でおなじみのフェレンギ人の会話には、
金儲けをして、月を買う、というフレーズが、
その成功の顕著な例としてしばしば出てくる。
最近では、うさぎおとこだぴょん、というCMもあったっけ。。。

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フェレンギ人のバーテン、クワーク。
こんな素敵なフェレンギ人は他にいない。

2006年11月21日 (火)

短縮形に関する一考察

さっき、気が向いて、マクドナルドに入った。
誰でも知ってるハンバーガーショップのマクドナルドだ。

ドライブスルーで注文をしたあと、そういえば、
この店は、関西ではマクド、と優雅に短縮するが、
関東エリアでは、マック、と不完全に略する
という話を思い出した。

短縮する、ということは、長いままでは、時間がかかり過ぎたり、
言いにくかったり、くどかったりするために、
なされる行為である、と認識しているのだが、
しかしそのために、ことばとしての機能を果たさなくなっては、
意味がない

マック、という省略形は、そういう意味では、問題があるのでは
ないか、と思うのんだ。

マクドナルドのMc、というのは、
アイルランド系やスコットランド系で、
息子(son of)を意味することばに語源を発するのだそうだ。

マクドナルド以外にも、いろんなMcが存在するし、
発音だけマックなら、他にもいろいろありそうだ。
ちょっと考えただけでも、アップルコンピュータも
マッキントッシュといい、マック、と略するのが
通常だったと思う。

マックを食べたい、といえば、そうそう誤謬は発生しないが、
そこにマクドナルドのハンバーガーと、
アップルコンピュータとが並んで存在する状況で、
そこの、マックとって、といわれたら、どっちをとっていいか、
わからない、というようなこともきっと起きるだろう。

そこのマクドとって、なら、間違いようもないというものだ。

語感のことをいうひともいるのかもしれないが、
それなら、ミスタードーナッツは、通常ミスド、と短縮し、
ミスターや、ミス、などとは略さない、ような気がするのんだ。
ミスド、がOKで、マクドがだめな理由があれば、
じっくりその理由を聞きたい、と思うくらいである。

それにひきかえ、ケンタッキーは、圧倒的にケンタ、
というようだ。
あるいは、正式にKFC、というのかもしれないが、
あんまり短縮された感じはしないよな。

ところが、最近、ケンタッキーをケンチキ、
と略す種族
の一員に出会った。
かのひとは日本人ではあるが、そのひとのまわりでは、
ケンタッキーは、ケンチキ、なのだそうだ。

ケンタ、ということばよりは、一文字多いものの、
チキをすばやくいえば、時間的には、そんなに変わらないし、
しかも、ケンタ、が日本の人名に多いため、
紛らわしい状況が発生する可能性を秘めているのんに対し、
ケンチキは、なにかの検知器と間違う可能性があるくらいである。

うちの家には、ガスの検知器が大阪ガスによって、
設置されてるものの、これを意識して生活したことは、
ここ10年以上ないことを考えると、
このケンチキ、という短縮形も、
それなりの合理性があるのではないか、とも思えるのだ。。。

なんてどうでもいいことをながながと書いているうちに、
せっかくのフィレオフィッシュがさめちゃったよ^^;

Mc
▼タイのドナルド君は、
合掌してやす。。。(-人-)

2006年11月19日 (日)

根拠のない自信

落語に、はてなの茶碗、という話がある。

あるとき、油売りが茶店(ちゃみせ)で休んでいると、
茶器の販売で名の知られた、茶金こと茶屋金兵衛という商人が
不思議そうに茶店の茶碗をみていた。
茶碗はどこにでもありそうな安ものに見えたが、
あの有名な目利きがしげしげとみていたのだから、
と油売りはなかば強引に茶店から全財産の二両と引換えに
この茶碗を手に入れた。

後日、この油売りは茶金のもとを尋ね、
千両にて買ってほしいと、例の茶碗を差し出した。
しかし、話していくうち、茶金は茶碗に価値を見いだして
見ていたわけではなく、
傷もないのに、お茶が漏れることを不信に思って、
眺めていただけだったことを知り、
油売りは、あきらめて帰ろうとする。

しかし、油売りが自分の目利きとしての名声に
全財産を投資してくれた行為を喜んだ茶金は、
その茶碗を元値で買い取ってやったのだった。

ところが、茶金がこの話を商売柄、
出入りしているお公家さんに話したところ、
宮中で評判になり、ついにはときのミカドが、はてな、
と箱書きするに至って、
そのどっから水が漏れてるかさえわからないような、
つまらない茶碗がほんとうに千両の価値をもつにいたった
のであった、てな話だ。

むかし、みのもんた氏の番組(たしか、愛の貧乏脱出作戦)で、
難波のひじょうにいい場所でたこ焼き屋をしてるのに
客が来ないから、なんとかしてくれ、っていう依頼があった。
なんで客が来ないかわからない、
他のことはともかく、味だけは自信がある、っていうから、
出演者が食べてみたら、そのたこ焼きは実は激まずで、
どう考えても、原因はおいしくないことなのに、
店主がそれを納得しない、っていうシーンを見たことがある。

かれは、たしか北関東出身の元自衛隊員で、
なんで自分のたこ焼きがおいしいと、思いこんだのか、
逆にそれが尋問くらいなのだが。

ぼくも最近いったいどっからわいてくるのかかわらない、
根拠のない自信、を持った自信家たちによくであう。

そういう方々は、のちに困るよ、っていったところで、

いや、大丈夫です

と揃いも揃って、おっしゃるのんだ。
いっぺんでいいから、その大丈夫、の根拠をぼくにみせてくれよ、
って思うのだけれど、やっぱ年寄りのおせっかい、
なんでしょうね(^^;)




▼根拠のある自信?
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2006年11月17日 (金)

ターボ付タクシー

最近、テレビでみたのだけれど、
大阪のタクシーがえらいことになってるらしい。
ぼくは、日本ではほとんどタクシーに乗らないから
よくは知らないのだけれど、過当競争と値下げ競争で、
タクシードライバーの収入が激減し、その労働条件の悪さから、
いろんな問題が発生している、ということだ。

タイでは、免許に1種・2種のような違いはなく、
その気になれば、誰でもタクシーの運転手になれる。
むしろ、田舎からでてきて、一番最初につくのが、
タクシーやバイクタクシーの運転手、というのが、
普通に学歴のないおとこのひとの、就業パターンらしい。

タクシー用の車を所有している会社に行って、
1日なり、半日なりの借用分のお金を支払い、
それで営業し、ガソリン代などの経費を差し引いて、
残った分が自分の利益、
といういたってシンプルなシステムだということだ。

タイでも、ガソリン代の値上がりが著しいけれど、
タクシーの台数が減ってる様子がないところをみると、
悪い商売でもないんだろうと思う。
車の運転さえできれば、クーラーは効いてるし、
時間の自由はきくし、客を選ぶ自由だってあるのんで、
タイ人向きの仕事だ、と言えなくもないと思う。

バンコクでは単純にいうと、
初乗り2㎞までが35バーツ(約100円)、それ以降は、
一定距離ごとに2バーツ(約6円)ずつ加算されていく。
あと、渋滞や信号待ちなどの時間の加算もあるようだ。

日本のように、近距離でいやがられることはなく、
むしろ、遠距離の方がいやがられる傾向にあるようだ。
加算のされ方が少ないので、ガソリン代を考えると、
近距離の客をたくさん乗せる方が得な料金体系なのだ。

だから、遠くに行くときや、渋滞のときなどは、
断られたり、法外な金額をふっかけられたりもする。
あと、雨の時の運転手も強気だな。

そんなふうに交渉でふっかけてやろう、という奴は、
実は、まだいい運転手、といえなくもない。
ぼくが遭遇したなかには、驚くべきターボ付のタクシーがいた。
しかも、ターボがついているのがエンジンではなく、
メーターの方だった、のである。

まあ、タイの物価は安く、タクシー代が嵩んだところで、
ぼくのジャパンマネーの敵、ではないんだけれど(^^;)、
それでも、まわるまわるよぉ、メーターはまわる♪、
と歌いたくなるほどの勢いだった。

しかも、どうも途中から上がり方が早くなったので、
客を見てから、ターボをかけるかどうかを選べるようだ。
今度そんなタクシーにであったなら、
どれがターボチャーヂャー始動ボタンか、
確かめてやろう、と思う次第なのである。




▼バンコクでは見ないで道を歩くことは不可能なくらい、
タクシーであふれかえっているのに、
地方都市では、プーケットくらいしか、
まともなメータータクシーの制度がないようだ。
多少言葉のできるぼくでも、交渉はうっとおしい。
タイ、という国は、馬鹿にならない観光収入を得ているのだから、
タイの観光局は、まじめにタクシーの問題を考えるべきだ
と思うのだがね^^

Tuktuk


これはトゥクトゥク。
メーターなんて代物は、はなからついてない^^;

2006年11月15日 (水)

バレエ組曲「ボルト」

朝、FM放送で音楽を聴いていたら、
ショスタコービッチのバレエ組曲「ボルト」、
というのをやっていた。
音楽を流す前に、バレエの内容の説明があったのだけれど、
なんでも、サボタージュで解雇されたソ連の労働者が、
そのことを逆恨みして、ボルトを使用して破壊工作を行なうが、
それに気づいた別の労働者によって阻止される、
というようなことがモチーフになっている、らしい。

そんなバレエを見て、ソ連時代のロシア人たちが楽しかった
のかどうか、いささか疑問ではあるものの、
音楽自体は、ショスタコらしい部分が随所にみられ、
また機会があれば聴いてみたい、と思える作品であった。

旋律に耳を澄ませれば、工場での作業音が聞こえてくるのも、
たまに聴くのは楽しかったりするんだろう。

さて、この作曲家は、ソ連時代の大作曲家であり、
体制のなかを巧みに生き、
体制にその芸術家生命を捧げたひと

として知られていた。

ところが、死後、実は社会主義体制を必ずしも受容していたの
ではなく、むしろ、批判的な気持ちで書かれた作品も多々あった、
という話まで出てきた、というのんだ。

音楽は音楽であり、ほおっておいても、耳から入ってくる。
しかし、作者が表現したいことがまるっきり逆でも、
誰ひとりとして、気がつかない、なんてことが、
芸術の表現として、ありえるのだとしたら、
それは、ひじょうに興味深いことのように思える。

かれの音楽が、当時の支配層やそれを聴いていた
すべてのひとには、革命の勝利や、社会主義の栄光、
などを表現していたように聴こえ、
作曲家は、実はそれを批判して書いていた、
ということがほんとにありえるだったら、である。

今、かれの作品は、そういう政治的なことを抜きにして、
純粋に音楽として、演奏し、また、鑑賞しよう、
という風なことになってきている、らしい。
かれの芸術の、真の意味での古典化、ということなのだろう。

芸術を解釈する、という試みはほんとうに難儀な作業
であるようだし、
たしかに、なんにも考えずにみたり、聴いたりする方が、
ほんとは、楽しめるかもしれないのかな、とも思うけれど、
でも、その反面、テーマのない芸術作品なんてなー、
と、ぼくは思ったりするのであるが、どうなんだろう。





▼今の若者は、東西冷戦とか、デタントとかいっても、
なんのことやら、って感じなんだろうな。
だからこそ、高等学校で必修科目飛ばし、なんぞせずに、
きっちりと世界史の勉強をしてほしいものだ、と思うのだけれど。
そういえば、故桂枝雀師匠も、落語的デタントの重要性
を説いておられた。。。(-人-)合掌
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2006年11月13日 (月)

クラリス

あんまり自慢げにいうほどのことではないが、
ぼくは、ええ歳こいたおっさんだ。
しかしながら、けっこう宮崎アニメが好きだったりする。

まあ、最近ではお仲間も多いようだし、
そんなに隠すほどのことでもないのが幸いであるけれど、
それでも、新作が出たからといって、
家族もつれあいも恋人も親しい友人もいないぼくは、
ひとりで封切館に出かけていくほどの勇気もなし、
世間もまだまだそんなおっさんを生暖かく見守ってくれるほど、
優しくはなさそうなので、
通常、黙って自宅でみる機会がやってくるのを待っている。

もちろん、映画くらいひとりでも行けよ、
という意見もきっとあることだろうけれど、
もし、ぼくが映画館でひとり坐っていて、
館内が混んでるにもかかわらず、
ぼくの両脇だけ空席だったりしたら、
ぼくはぼくなりに気を使うのんで、
やっぱり宮崎アニメをひとりで見に行くことは、
これからもなかろうと思うのだ。

それにぼくは、最近の作品よりは、
むしろ昔の作品の方が実は好きなのだ。
ナウシカやラピュタは何度も見たし、
自分でも中国語字幕のVCDをもっていたりするのだが、
それでも、またテレビで放送があって、
ザッピングの最中、それにひっかかると、
結局、そのまま最後まで見てしまうのは、そんな初期の作品だ。

トトロは、おとーさん役の、糸井重里さんの台詞まわしが、
ぼくにはどうにもひっかかって、
いまひとつ、作品に集中できなかったりするのんで、
必ずしも、好きな作品ではなかったりする。
ぼくの感性は、まだまだ発展途上なんだろうな、きっと。

そんなぼくが(どんなぼくだ^^;)、一番愛してやまないのは、
やはり、ルパン三世 カリオストロの城、なのである。
なんといっても、汚れなきクラリス姫がよろしいではないか。

wikipediaによると、あの事件は1969年の出来事らしいので、
クラリス姫ももう今では50歳を超える年齢
になっていることだろう。
ドロボーさんに心を盗まれたことなどすっかり忘れて、
どっかの国の誰かさんのように、
でっぷりした王女様になっていたりしたらどうしよう、
などと、詮無いことを考えたりする、秋の夕暮れ、
なのであることだよ。

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▼ちなみに、皇帝の奥さんは、皇后というけれど、
その皇帝が亡くなったあとは、なんと呼ばれるかご存知かな?
そう、かのじょは、皇太后(こうたいごう)、となる。
それでは、新しく即位した皇帝も亡くなり、
まだ先々代の皇后がご存命の場合は?
それは、太皇太后(たいこうたいごう)
と呼ばれる存在になるのんだ。
王族の女性はやっぱり歳を重ねると、太る運命にあるようだ。。。

2006年11月11日 (土)

SONY帝国の落日

初めてウォークマンで、音楽を聴いたときの衝撃は
忘れられない。
カセットテープの再生機なのに、なんといい音なんだろう、
というのが、その主な感想だった。
今から、20数年前の出来事だった、と思う。

衝撃は、初代のウォークマンで留まらなかった。
2代目のウォークマンは、厚みこそあったものの、
大きさは、カセットテープより少し大きかっただけで、
ぼくは、ほんとにびっくらこいてしまったものだ。

お猿が、グリークのピアノ協奏曲の冒頭部分を聴いて感じ入る、
という風なCMとあいまって、あの製品は、売れに売れた。
あれからずっと、SONYは輝いていた

ところが。

ここ数年は、どうしたことだろう、SONYのいい話は
でんでん聞こえてこない。
とくに今、アップルのiPodが席巻している市場は、
本来、SONYのシマ、だったはずだ。

しかし、いまだにアップルの快進撃を止められずにいる。
むしろ、PC用電池でみずからのブランド力の危機と、
その後始末で、経営的な問題にさえ直面している。

iPodの勝利は、自分を殺したところからはじまった。
死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン、というやつだ。

アップルがiPodを最初に出したとき、
自社製のコンピュータをもっているひとのみが
それを使用する権利をもっていた。
iPodでマッキントッシュを売ろう、という戦略だったわけだ。

しかし、iTuneを無料で配布し、
Windowsでも使用できるようにしてから、
iPodは、大ヒットすることになった。

それに対し、SONYは傘下に音楽ソフトの会社をもっていた。
アップルのように、著作権に対して比較的寛大なスタンス
というものをもてなかったのが、今日まで続く大きな劣勢の要因
になっている。

著作権を考慮する余り、メモリーステックウォークマンは、
当初ひじょうに使いにくい商品だった。
そして、ファイル形式もmp3ではなく、自社開発のものだった。
しかも、当時安くもなかった、著作権対応のメモリーステックを
別に買わねばならなかったのんだ。

結局、この商品は、市場から静かに退場していくことになった。

この製品以後、ぼくは、たくさんのハードディスク型、
あるいは、フラッシュメモリ型の音楽プレーヤーを買った。

第2世代iPod15GB、初代iPodnano4GB、
東芝ギガビート20GB、
そして、最近、手に入れた新型iPod80GBだ。

けれど、使用しにくかったメモリーステックウォークマン以後、
SONY製品は、ひとつも買ってない。
買いたくなるような、斬新で魅力的な製品が出ていないから、
というのがその大きな理由である、と思う。

でもそのうち、SONYはきっとなにかしてくれるに違いない、
とぼくはまだ信じている。

がんばれ、SONY。

▼最近、ロケーションフリー®、に関心がある。
値段もすでに手頃だし、もっと宣伝などに力を入れれば、
大きな市場になると思うのだが、SONYは何故せぬのんだろう。

Sonyipodnano





写真は、見にくいけれど、プノンペンで見かけた
SONY製のiPodnano^^;
同じビルのなかに、正規のSONY製品を扱うショップもあった
のだけれど、ちゃんと共存できるのがアジアンスタイルかな(^^

2006年11月 9日 (木)

怒れるおっさん

かれは激怒していた
その日、ぼくの斜め前の座席に坐っていた、おっさんのことだ。

まもなく離陸、という時間なのに、
ぼくの斜め前の座席はまだ空席のままで、
今日はほぼ満席なのに、通路側があいているのは妙なことだなー、
と思っていると、全身から不機嫌のオーラを発生させながら、
50歳過ぎくらいのおっさんが、
ぎりぎりになって乗り込んできた。
そして、その席は、そのおっさんのもののようだけれど、
かれは、なかなかその席にすわろうとはしなかった、のだった。

立ってるだけで不機嫌を表現できるなんて、
もし、役者なら、名優といっていいだろう。
でも、かれは演じているのではなく、ほんとに怒っていた。

座席についてからのスッチーとのやりとりで、
かれがなんで怒っているのかがわかった。
いわゆるひとつの、ダウングレード、というやつに
遭遇してしまったのだ。

アップグレード、はぼくも数度遭遇し、
その幸せを享受いたしたことがあるが、
ダウングレードという経験は一度もない。
エコノミー以外に乗る機会がほとんどないもんで、
ダウングレードにあいようもない、というのが真実なのだけれど。

おっさんは、事前にOKが出たのになんでこんなことになるんだ、
と怒り心頭であったが、ぼくにはなんとなく
なんでそうなったのかがわかった。

飛行機会社は、なるべく飛行機を満席で飛ばしたい。
これは当たり前のことだ。
そのために予約の変更不可能なFIXのチケットを売る
という戦略を日本の航空会社は長くとってきた。
日本のように、時期や日にちによって、
航空券の値段がでんでん違う
ような、
そんな売り方ができる市場にはその方法があってもいたのだろう。

それに対して、海外の多くの航空会社は
余計目に予約を入れる、というシステムをとってきた。
予約を入れながら、当日現れない客が経験的
20パーセントいる、となると、
120パーセントまで予約を受けるわけだ。

別に航空会社の肩を持つわけではないが、
これは違法なことではなく、航空会社の権利なのである。
客が予約をキャンセルする権利をもつように、
航空会社には、オーバーブックを受ける権利がある

そうでなければ、その分、空席を多くあけたまま、
飛行機を飛ばすことになり、それは、運賃の値上げ、という形で、
乗客たちにも影響を及ぼすことになる。

では、多い目に予約をとって、
ほんとうに客が来た場合はどうなるか。
それは通常、エコノミーで発生しやすいできごとなので、
ビジネス席があいていれば、アップグレードという形で
処理される。
それでも足りなければ、次の便に乗せることになる。
だから、それがいやなら、早くチェックインすべきなのだ。
さっきも書いたとおり、オーバーブックは航空会社に
認められた権利なのだから。

この怒れるおっさんは、ぎりぎりのチェックインで、
当日、たまたまビジネスにはもはや席がなく、
なんらかの都合で次の便に乗る、あるいは他社の便に乗る、
というわけにもいかなかったのだろう。
考えようによっては、エコノミーでも席があっただけまし
と言えなくもない。

しかしかれは、怒りのオーラとともに、エコノミーにやってきて、
かわいそうな、無実のスッチーに当たり散らしていたわけだ。

エコノミーでひとりシャンパンを飲むおっさん。

かれはその後も、食べ残しのごはんに、
ほかの容器を突き刺したりして、かれの心象風景を
そこにあるものを使って巧みに表現していた。
かれには、名優の素質ばかりか、芸術的素養もあるようだった。
ただ、座席を確保する才能、には難があったようだけど。

できれば、次からは、早い目にチェックインするか、
オーバーブックにあわないように飛行機をチャーターするか
しようね、とぼくはかれに助言してあげたかったのだが、
ご飯に突き刺さったままの、空のサラダの容器をみて
やっぱり黙って置くことにしたのだった。

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2006年11月 7日 (火)

華麗なる加齢

こんなことが以前にあった。
むかし、別の事業所でいっしょに働いたことのあるおんなのこが
結婚退職することになり、わざわざ挨拶に来てくれたのだが、
ぼくといっしょにいた、職場の女性にいきなりためぐち
話し始めた。

たしかに職場のかのじょは若く見え、結婚退職するおんなのこは、
自分と同じ歳くらいだと思ったのだろうが、
傍若無人の振る舞いでならしたおんなのこだったから、
できたオオワザともいえる。
どうせやめるんだし、どういう風になるのか、
しばらく様子を眺めていたのだが、
あんまり傷が深くなる前に、ほんとのことを言うことにした。

あのさー、キミが今話してるひとさー、若く見えるけどさー、
ぼくとあんまり歳変わんないんだよー。

結婚退職の挨拶に来たおんなのこの顔から、
みるみる血の気がひいて、顔面蒼白になっていく
のがわかった。

よく聞くと、かのじょらは出身校も干支も同じ
つまり、12歳うえの先輩いきなりためぐちを
きいていた
のだった。

挨拶にきたかのじょが帰ってから、ためぐちをきかれた方の
かのじょの様子をうかがうと、ためぐちをきいたかのじょ
に対して、むしろ、好意的でさえあった。
若く見られるというのは、その他のことを帳消しにするくらい、
うれしいことなんだな、ということがよくわかった事件であった。

ぼくは高校生のとき、初めて、おっちゃん、
と小学生に言われて以来、
髪を染め、意識的に若造りしていた一時期を除き、
実年齢よりも若く見られることのない人生を送ってきた。

老けて見られる悔しさ、ということには造詣が深いつもりである。

しかしながら、若く見られるよう、努力することは
いつのまにかやめてしまった。
しょせんは外面の問題にすぎないのだ、
と思うようになってきたのんだ。

たしかに若く、美しくあることは、ある種の人々には重要
なのだろう。
異性にもてたい、とか、他人からよく見られたい、とか、
そういうことが、人生の目標の前面にあるひとたちには、だ。

そして、そのへんの事柄と決別してしまうと、
男であれ、女であれ、おしまいだ、という意見もあるだろう。

しかし、である。

どんなに頑張ったって、ほんとに若いひとには、
若さや、それに付随する美しさ、
というフィールドでは勝てない、とぼくは思うのだ。
なんというか、熊と素手で戦うようなもんではないのんか、
ということだ。

それならば、年齢を重ねた人間は、むしろ、
もっと違うところで頑張るべきで、
歳を重ねているからこそできること、で、
若者とはりあうべきではないのんか。

それがなにか、っていうことについては、
ひとそれぞれ意見があろうと思う。

深い学識だったり、豊かな経済力だったり、
巨大な包容力だったり、
っていうのは、簡単に浮かぶ候補たちだ。
あるいは、謀略や策略、というような分野も、
場合によっては、有力であるかも知れない。

自分がどこで頑張れるのか、っていうのはわからないものの、
クロキヒトミさんでさえ、最近、あれだもの、
永遠に若くあろうとすることは悲しい努力なんだ、
と確信するしだいだ。



▼あるいは、火の鳥の生き血を飲む、という方法を、
実行できるひとはしてみてもいいかもしれないな^^;
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2006年11月 5日 (日)

聖なる飲料水

いままでこのブログの中でも、幾度かにわたって、
中島らも氏への熱き思いを述べてきたぼくではあるが、
行動的でないが故に、ファン失格ともいえる、
大きな弱点を持っている。

ファンであれば、一度は巡礼すべき場所である、
亜細亜コーヒーに行ったことがないのである。

亜細亜コーヒーについては、かれが関西のついて述べたところの
最終書である、「西方冗土 カンサイ帝国の栄光と衰退」の、
ナゾのババア喫茶、古怪、の項に詳細に記述されているので、
興味のある方は、そちらをあたっていただきたいのであるが、
なにしろあやしい喫茶店だった、らしいのだ。
関西にいる、らもファンはごく当然として、
それ以外の地域のファンであっても、
一生に一度はお参りしたい場所だった、のである。

そして、そこで飲むべき飲料は、その後、
いろいろなところで取り上げられ、
妙に有名になってしまった、ねーぽん、というジュースだ。

ファンにとっては、聖水、とでもいうべき存在だったのである。

ところが、である。

wikipediaのねーぽんの項目によると、
亜細亜コーヒーは高齢の女主人が死んだため、
店自体、もうすでにこの世になく、
ぼくは聖地巡礼の機会を永遠に失ってしまったようだ。

教祖のらも氏ももうこの世のひとではなく、
ぼくは、これからなにをよるべに生きていけばいいのだろうか、
と思わないでもなかったある日、なにげなく入った
スーパーの一角にこのような光景をみた、のであった。

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そう、聖水たるねーぽんが、まるでジュースのように
普通に売られているではないか。
普通でないのは、1本200円
というひとをなめたような値段だけだ。

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ねーぽんが売られていたことに驚愕し、写真まで撮った
ぼくではあったが、とても、1本200円も出して、
あの怪しげな飲料を買う気にもなれず、
とりあえず、家には帰ったものの、聖水への思いは断ち切り難く、
また、ちまたでは、400円とか、1000円とか、
怖いもの見たさ、なのか、妙な有名さのゆえ、なのか、
オークションなどでは、予想以上の値段で取引が
なされいるのを知り、
この機会を逃しては、次いつまた出会えるともわからないし、
ついに決意して、一揃い買ったのだった。

しかし、瓶に触るとなんとなくベタベタした感じがする
ような気がして、あまりさわやかでもなく、
ほんとに飲んでも大丈夫なのかどうなのか、
ファンとしての真の意味での信仰心
が問われるのはむしろこれからなのかもしれない、
と思う、らも教の在家信者たるぼく、なのであった。

とりあえず今日は、体調があまり優れないし、
飲むのはやめておこう、と思う^^;


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▼左から、ネーポン、ミスパレード(中身はNEPON)、
銀座甘酒、アップルapple、カラー・オブ・パイン、
スーパースターレモン、ストロベリー♡レディ、
ハッピーライク・メロン、オレンジキューティ・スター。

兵庫区にある、有限会社ツルヤ食料品研究所、の製品だそうだ。
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2006年11月 3日 (金)

かれの大博打

最近、携帯電話の番号を変更しないまま、
電話会社を変更することができる制度が導入されることになって、
とある会社がしかけた、新料金プランの発表方法と
その報道をめぐって、いろいろと考えさせられた。

そもそも、この番号持ち運び制度は、
携帯電話間相互のメールサービスであるSMSの
盛んな海外ではより便利だと思うけれど、
携帯電話によるemailサービスが一般的な日本では、
利用できる人は限定されるのではないか、
という見解が一般的であったようだ。
emailアドレスは持ち運べない、からだ。

にもかかわらず、とある会社が勝負をかけてきたのんは、
それがこの会社の経営者の常套手段であり、
また、大きな借金を抱えて、勝負に出ざるをえない
そんな事情もあったのだろう、と思う。

ただ、そういう手法はとりあえずは当たり、だったようで、
事前に一切の資料を配られずに行なわれたマスコミ発表後の
報道は、新たな料金プランが安い、ということ前提に、
今後の展望や問題点の指摘、が行なわれていたように思う。

ところが、である。

よくよく検証してみると、その会社が発表した料金体系は、
発表した段階では必ずしも安い、とはいえず、
むしろ、一般的には割高になる可能性も高かったことが、
わかってきた。

そのような声を受けて、たとえば、他社携帯電話への通話料を、
他社並に引き下げたりして、整合性をとろうと
しているようであるが、正直、
それでもそんなに魅力的な料金体系であるかどうか、
使ったひとがどれくらい満足するものなのか、
正解はあけてみないと、わからない、
というのがどうも今の状況に近いような気がするのだ。

にもかかわらず、その会社の、センセーショナルな発表方法
につられる形で、当日の夜のニュース番組などは、
さもその料金体系が安いかのイメージを植え付けるような、
報道姿勢に終始していた報道各社は、報道機関として
その検証能力をいかがなものか、と思われてもしかたない
のでわ、と思う次第である。

しかも、今回、その会社が目玉、として出してきた料金体系は、
そもそもPHS最大手のウィルコムでは
もっと完璧で、真に定額、といえるものを、
すでに1年以上前から実施していたのんだ。
ところが、ウィルコムがその料金体系を発表したときには、
報道各社は鼻もひっかけなかった

そして、ウィルコムがその料金体系をを出してから、
携帯各社がそれに追随しなかったのは、
各社の収益構造以外にも、実は大きな問題があったからだ。
トラフィックの問題である。

PHSと違って、携帯電話はアンテナ基地局の設置に
大きなコストがかかるため、インフラの問題から、
掛け放題の料金プランをあきらめざるをえなかったのだ。

ところが、今回勝負に出た会社は、ついにみずから
パンドラの匣をあけてしまった。

ウィルコムによると、定額掛け放題の導入によって、
そのプランを選択した利用者の、ひとりあたりの通話時間は、
30倍にもなったそうなので、
その会社の携帯電話は、掛け放題がゆえにつながらない、
なんてことにならなければいいのだが、、、
と笑顔で心配してやる、ウィルコム主義者なのである(^o^)



▼その後、公取委の調査が入ったり、
事務作業が手間取って、受付停止に追い込まれたり、
挙句の果てに、加入者は減っていたり、と、
今のところ、かれの大博打は、うまくいっていないようだ。
見せかけの安さにだまされちゃいけない、皆の衆
真にお買い得なのは、ウィルコム、なんだよ^^

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年季があけたら、
あっしが次にほしいのはこれ。

2006年11月 1日 (水)

お買い得道

お買い得道、とでもいうべきポリシーをもっている。
お買い得ではない商品を購入しないための、
自分への戒め、というか、ルールのようなものだ。

たとえば、電気屋のポイントサービスは、
ふだんはなるべくためるようにして、
ポイント還元の少ない商品を購入する際に使う
iPodや、あるいは、年賀状、書籍類、iTunesカードなんかが
そういう商品だ。

また、お買い得道に従った結果、焼酎ブームのさなかでも、
定価より高い値段で、求める焼酎をほとんど買うことはなかった。
魔王も、佐藤の白黒も、森伊蔵も、定価で買った
どんなことでも、可能、とはいかなかったけどね。

これらの焼酎は、プレミア焼酎とか、幻の焼酎とか、称して、
最近では、酒屋さん自身さえ、定価以上の値段で売っていたり
するので、日々難易度は上がっているようだ。
一過性のブームかと思っていたけれど、そうでもないようだし。

ただ、酒屋さんの中にはまだ良心的なひとがいて、
そういう酒屋さんは、定価で売ってたりするのんだけれど、
これはテンバイヤー、といわれるオークションなどでの
転売目的のひとたちに買い占められる。

ぼくが狙ったのは、こういうひとたちに買い占められないように、
酒屋さん自身が、防衛的な方法としてとった、
抱き合わせ販売の焼酎だ。

たとえば、定価1000円、ちまたでは、3000円で
販売している、焼酎があったとしよう。
酒屋さんは、供給量が多く、定価以下でしか売れない、
別の商品を組み合わせて、3000円以上の価格にして
販売するわけだ。

ほんとにお酒を飲む人は、べつに他の商品がくっついてきても、
飲めばいいわけだからこれを買い、
テンバイヤーは、不良在庫を抱え込む可能性を恐れ、
また、利益が薄くなるために手を出しにくくなるわけだ。

本来、あんまり望ましい方法ではないかもしれない、
抱き合わせ販売だが、この場合については、
本来利益を得るべき、まじめな酒屋の利益に貢献している
わけで、ぼく的には、これを買ってやりたい、と思ったのだ。

そして、プレミア焼酎を飲みたがった、
以前のかのじょにはそれを与え、
酒ならなにを飲んでもいい、
父親に抱き合わせの焼酎を与えていた。
ぼく自身も、定価で買った、というお買い得道での
正しい購買行動に満足を得る、という方法論だったのんだ。

ところが、かのじょと別れたとき、ぼくの部屋には
たくさんの焼酎が残されていた。
近々の引っ越しに備え、かのじょの部屋に
持っていっていなかった、焼酎たちだ。

なかには、なかなかに手に入らない、
珍しい焼酎もあったのだけれど、
これをオークションなどで売る気にはなれなかった。
それでは、ぼくがテンバイヤーになってしまう。

でも、酒を飲まないぼくの部屋にそれを置いておいても
しかたがないし、結局、それらの焼酎のほとんどは、父親を
より酔っぱらわすのに荷担することとなった。

ただ、気がかりなのは、父親が多少は、何か、を感じて
飲んでくれたかどうか、ってことだ。
それとも、魔王を飲んでも、大五郎を飲んでも
同じように、ただ酔っぱらっていただけ、なのだろうか。

それが怖くて父親に、味の感想はいまだに訊けないでいる。




▼1本千円ちょっとの赤霧島をどうどうと5000円以上で
売っている酒屋。
一升瓶換算だと、10000円以上にもなる計算だ。
これだってきっと、父親はまるで大五郎にように。。。(T_T)
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